中学校卒業式の祈り
聖書朗読箇所とお話の一部を以下に掲載します。
「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」といったところで、体の一部ではなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。私たちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄え良くしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」
(コリントⅠ 12・12~26)
パウロは、復活したキリストと出会い、その福音を世界に広めた人です。自分がコリントという町に自分が立てた「キリストに従う教会」の中で、お互いに争っている人々に対して、共同体とはどのようであるべきかを、この手紙の中で説明しています。パウロは共同体を一つの体にたとえています。そして集団の中の人、一人一人にそれぞれの役割がある、と話しています。また、「人間の一人ひとりは比べようがない、かけがえのない存在である」というとても大切なことを私たちに伝えています。